2010-11-24

自閉症スペクトラム児への「修行」を否定する人は、本当にその子を「ひとりの人間」として見ているのか?

 自閉症スペクトラム児に社会で難なく生活できるよう、また社会人として生きていけるよう、訓練の意味を帯びた教育をしていく、いわばその子らに「修行」を課して育てている親御さんを、最近ネット上で見かけます。
 私はこの動き、いいことだと思います。完全にとはいかなくても、これから社会の中で生きていくにあたって、少しでも困ることが少ないほうが、いいに越したことはありません。社会人となるためにも、こどものうちから「社会で生きていくとは、どのようなことか」を叩き込むことが重要ではないかと思います。
 そのために「修行派」の親御さんは、自分の子にあった方法を見つけ出して、その子に過度に無理がかからない程度に修行を課していることが多いようです。親として自分の子の人生を整備してやろうとの思いが垣間見えます。

 しかし、そんなやり方に異議を唱える親御さんも、当然ながらいるものです。そんな「修行否定派」の親御さんは、自閉症スペクトラム児に「修行」を課すことに対し、こう言います。
「こどもに修行なんて、かわいそう」
「そんなことして、それは虐待ではないか」
「こどもの障害を否定している」
 だから自閉症スペクトラム児に「修行」なんてしなくていい、ただありのままに育って欲しい、と。

 私はここで引っかかるのです。それは、自閉症スペクトラム児を「普通の人間でない、特別な存在」として見ているのでは?と。
 この手の親御さんはよく「障害は個性」という言葉を口にします。障害は個性で、その個性は他にはあまり見ないもの、だから特別なんだ、という発想。しかし特別だから何だというのでしょう。そこから何か先に進むものがあるのでしょうか?
 極端な見方をすれば、修行否定派は特別だ個性だという点にとらわれて、自閉症スペクトラム児を「社会の中の人間」と位置づけていないような気がするのです。いわば「ひとりの人間」としても見ていないのではないか、と。

 その点、修行派はきちんと自閉症スペクトラム児を「社会の中の人間」とみて、そのうえで社会に出るための「修行」を課している印象を受けます。決して特別ではない、これから社会で生きていかなければならないのだから、そのために「修行」をさせる。この考え方のほうが、よほど自閉症スペクトラム児を「ひとりの人間」として見ていると思います。
 ゆえに私は修行派に好印象を抱きます。

 こういった「修行」を実践している親御さんに、修行否定派があれやこれやと口出しするのは、野暮というものです。そもそもなぜ、人様の教育方針に他人が首を突っ込むのでしょうか? 修行派にとっては迷惑、かつ大きなお世話でしょうね。

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エビフライ飯

Author:エビフライ飯
大阪府在住。男性。
発達障害の一種、高機能自閉症を抱える人間。
公営競技・野球・サッカーなどのスタジアムという空間が好きな自分です。
ファジアーノ岡山の本拠地・シティライトスタジアムに時々出没しています。



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